神経科学の応用慎重に

 

 

松島斉(東京大学)

 

日本経済新聞「経済教室」(2008年7月15日)より

 

 

 

神経科学(脳研究)がブームである。 経済学でも心理学との学際領域である行動経済学から神経経済学が誕生し、日本でも注目されている。その中に死角はないだろうか。急進的な神経経済学者は「主流派経済学とは異なるパラダイムを目指す」と主張し、以下で説明するように、伝統的経済学が死守すべき「選択の自由」と「制度設計」の理念と真っ向から対立している。

 

神経経済学は、機能的磁気共鳴画像装置(fMRI)などを使い、神経科学的手法で個人の経済活動での心理的・生理的プロセスを解明する。例えば人間には、当たりの確率を知らされていないあいまいなくじより、知らされているくじを好む性向がある。これは不確実性下の投資分析にかかせない重要概念だ。

fMRIによる脳画像データを分析すると、あいまいなくじを回避した個人は、不安な感情をつかさどる扁桃(へんとう)体と呼ばれる脳の部位が強く活性化していたことがわかる。こうして、個人の選択パターンは神経科学的記述によって裏付けられる。

こうした経済活動の神経科学的記述を豊かにすること自体は実に魅力的だが、問題なのは、急進的な神経経済学者が、神経科学的記述がさらに豊かになれば、伝統的な経済学の諸概念を使い経済現象を記述したり評価したりする必要がなくなり、いずれ神経経済学が主流派経済学にとって代わると主張している点だ。

そもそも伝統的経済学は、経済活動における選択パターンを解明する学問である。そして、個人の実際の選択を通じて顕示された選好を経済厚生の一義的な評価基準とする。 つまり経済配分の良しあしは個人がその配分を別の配分より実際に選択するかどうかで最終的に評価される。一方神経経済学は、快楽という抽象概念を評価基準にしようと考える。神経科学の知見によれば、個人の欲する選択は高い快楽の達成と一致しない。 選択と快楽は関連する脳の部位が異なるため、区別して扱う必要があるという。

主流派経済学は個人の選択の自由を快楽の達成より重視するが、神経経済学は快楽の達成の方を重視し、個人の選択は心理的バイアスにとらわれ、まちがいだらけだと主張する。例えば、健康に悪いと知りながら、人は喫煙をいつまでもやめられない。喫煙のような選択の誤りは、もっと広範囲の経済的状況にも多かれ少なかれ見られる。だから、個人の選択は一般的にあてにならず、いずれ神経科学の発展で快楽を脳から直接測定できるようになれば、個人の選択を快楽の代用物として経済厚生に使う必要はなくなるので、主流派経済学のような「選択の自由のための学問」は不必要だと主張するのである。

 

こうしたパラダイムは、D・カーネマン米プリンストン大教授のノーベル経済学賞受賞後の論文などを契機に、C・キャメラー米カリフォルニア工科大教授、G・ローウェンシュタイン米カーネギーメロン大教授などの急進的神経経済学者によってつくり出された。これに対し、プリンストン大のF・グルとW・ピーセンドーファー両教授による2005年の論文を皮切りに、この問題点が多く指摘され、今日論争に発展している。

主流派経済学と神経経済学のパラダイムの違いは、政策提言の仕方に色濃く表れる。主流派経済学でいう個人の選択の自由は、一方で他人の利害と衝突する危険をはらむ。そこで、各人の選択の範囲を制度で規定する必要が出てくる。つまり、主流派経済学では制度という概念が極めて重要で、高い経済厚生を実現する政策提言は制度設計としてなされる。制度の良しあしは、人々が選択の自由を一様に達成できるか、特定の個人が選択の自由を侵害されていないかに照らし判断される。

たばこがやめられないといった一見選択の誤りにみえる例も、すぐれた禁煙方法を入手し、実行を促すインセンティブ(動機づけ)が提供されていない不備が現行制度にあるとみなされ、制度設計の重要な検討対象になる。選択の自由は、本人が欲する選択を最優先するが、意識的だけでなく、習慣的になされる選択も許容する。

一方神経経済学は選択の自由を考慮しないので、制度設計の理念も排除し個人の心理的・生理的プロセスの中に直接問題解決の所在を求める。このため神経経済学の政策提言は、脳のデータから快楽の指標を割り出し、適切な快楽水準を達成する選択をするように、いわば「セラピスト」として本人を説得する形をとる。その結果、制度設計にかわり、パターナリズム(父親的温情主義)、すなわち「強い立場の者が弱い立場の者をおもんぱかり、弱い立場の者の意志に反してでも行動に介入・干渉する」という格好になりがちになる。

快楽はそれ自体定義も検証もできないので、脳に関連する変数で代用される。この際、どの変数を指標としそれをどう使うか、分析者の判断の恣意(しい)性が避けられない。いくら快楽の測定技術が進歩しても、正しい測定の仕方が何かを判断する能力が向上するわけではないからだ。

このためパターナリズムは、心ない政策担当者が経済厚生の基準を作為的に操作して個人をそそのかして、制度を無視して自分に都合のいい社会を形作ろうとする危険性をはらむ。ナチズムや全体主義のような「隷従への道」に悪用されかねないのだ。

一方主流派経済学では、どんなに独創的な着想でも、社会に根付いて人々がそれを選択するかどうかを問う審判を受ける。こうして政策提言者は、優越心に満ちた権力者から、普通の人と同じ目線で評価される地位にまで引きずり降ろされる。これが「選択の自由のための学問」の意味であり、伝統的経済学が担う社会的使命である。

 

もちろん、私を含め多くの経済学者は、神経科学と経済学を関連付けることに大きな関心を抱いている。神経経済学がパラダイムを見直せば、選択の自由と制度設計の理念、つまり主流派経済学に貢献できると期待するからだ。

この裏には、過去十数年、心理学からのすぐれた着想を制度設計に結びつけた伝統的経済学の実績がある。例えばR・セイラー米シカゴ大教授らは、被雇用者に401k年金加入の諾否を選択させる際、被雇用者が未加入の状態を現状とみなすより、既に加入した状態を現状とし、解約のオプションが与えられているとみなす方が年金加入率は著しく高くなることを示した。つまり被雇用者の選択は、年金の便益のみならず、現状を変えたくない心理にも影響されるのだ。心理学者はこれを現状維持バイアスと呼ぶ。

この結果、未加入を現状とするプランと加入を現状とするプランとが異なる年金制度として扱われ、実際に米企業の多くが後者のプランを採択、被雇用者も歓迎した。セイラーら心理学者の着想が制度として自生的に秩序付けられ、社会に根付いたのだ。

この例では、単に心理学の知恵を借りただけでなく、主流派経済学の考え方をも変えた。二つのプランは未加入と加入のどちらを現状とするかという年金の便益と関係ない条件を除けば全く同内容だ。従来の経済学は、便益と関係ない条件は選択の判断材料となりえないという合理的個人の仮定を厳格に守り、二つのプランを区別すべきでないと考えていた。しかし今日の主流派経済学者は、合理的個人は場合によっては説明力が乏しく、経済学のパラダイムにとって必ずしも必要ない仮定だと考えるようになった。

神経科学にも心理学のような貢献を期待したい。だが、現段階では研究は進んでいないし、今後何ができるかも心理学ほど自明でない。脳研究のものめずらしさがうせた時に、「ビールを選好する人の多くは、ビールをレジまで運んだ人だ」といった、経済学と無関係なことが同時並行で起きていることを説明するだけの、無意味な言明しか残らないかもしれない。私はそうではあるまいと願うが、その真偽はすべて今後の研究成果にゆだねられている。

神経科学と経済学とが有意義にかかわるには、経済学を深く理解し、経済学の社会的使命と正面から向き合うことが必要である。つまり、主流派経済学の専門家自らが、神経科学に関与して、経済学的貢献を問いただしていかなければならないということだ。