2009年3月1日

 

 

第110回(平成21年春季)東京大学公開講座

 

「特異」―その不思議、危険、そして魅力

 

5/16(土)特異における多様性-法・経済・宗教-

 

 

 

金融危機という名の「特異」

 

 

松島斉

 

東京大学大学院経済学研究科教授

 

 

 

 

講義要項

 

 

想定外の事態としての「金融危機」

 

今日前代未聞の深刻さで世界を震撼させている「金融危機」は、多くの人々にとって想定外の「特異」な事態といえます。アメリカ合衆国では、クレジットカードがもてなかったり、借入ができなかったりする「信用力」の低い人たちが住宅をもてるように、サブプライムローンという新しい金融の仕組みを開発しました。そして、その試みは、残念ながら破たんしました。しかし、そのことだけではすまされず、破綻は急速に増幅し続け、世界中を巻き込む大騒動になってしまったのです。

特異に感じる気持ちは、政策担当者やたいていの経済学者とて同じです。経済学の教科書には、金融危機の発生、処方箋、予防策についてほとんど何も書かれていないからです。ですから、今回の危機のようなかんじんな時に、教科書に書かれた経済政策は無力だったり実行力がなかったりするのです。

経済学は長きにわたって「モノ、ヒト、カネ」の動きを、需要と供給の法則を使って分析してきました。そのため、信用が低いとか高いとかいった、今回の危機に深く係る「信用」の価値は、外から与えられるもの、あるいは通常の商品のように生産販売できるようなものと単純にとらえてきました。しかし、現実の信用の価値はこのような想定とは全く相いれません。

私は、金融危機の回避、さらには経済社会一般の「安心」の本質は、信用のメカニズムに真剣に向き合うことにある、と考えます。公開講座でお話しするのは、まさにこのことです。

 

 

経済を支える信用のメカニズム

 

経済は信用によって支えられています。我々は日常で支払いにクレジットカードを使いますが、それはカードを通じて信用が付与されているからです。企業間の取引においても、引き渡しと送金が同時になされるわけではありません。ここにも信用が大きく作用しています。そして、もっとも重要な信用の役割は、ビジネスに必要な資金を調達する局面に見られます。ビジネスの火種を発見し、それを遂行できる立場の人は、得てして必要な資金を自前では準備できません。他の人に信用してもらい、出資してもらってはじめて、ビジネスチャンスを現実に近付けることができるのです。

さらには、ビジネスという言葉の枠をこえて、将来に成果が見込まれる機会に踏み出していくあらゆる局面にも、信用が深くかかわっている、またそうあるべきだ、と考えることができます。信用のメカニズムがうまく機能すれば、貧しい環境で生まれたがために、将来にはばたくチャンスもそのための能力の開発も制限されている人々を、勇気づけることができます。ですから、信用は、経済のみならず、社会の「正義」全体を支える屋台骨なのです。その屋台骨の大きな部分が、今回の危機によって音をたてて崩れ落ちた、というわけです。

 

 

信用の個別性と相互依存

 

信用は非常に個別的なものです。相手が信用に値するか、について、相手のおかれた環境、動機、相手が知っていて自分が知らないこと、などなど様々な個別的なことが、信用する側の判断に関与します。信用される側にも、相手を裏切ることをよぎなくせざるをえない状況がおこるか、ビジネスがうまくいかない時にどれだけリスクを回避できるか、などなど、多くの複雑な問題が絡みます。よって、信用は、個別的な事情に深く依存しており、「均質」なものととらえるとその本質のほとんどを見失ってしまいます。

一人では対処できない困難やチャレンジには、誰か別の人の支えが必要です。このような支えを、相互に依存しあってつなぎあわせるのが、信用のメカニズムです。すぐれた信用のメカニズムでは、個別的に破たんした場合に、その被害を誰かが吸収してくれます。これこそが、信用のメカニズムの一番の役割です。

しかし金融危機では全く逆のことが起こるのです。信用のメカニズムを逆さからながめると、信用を与えた人もまた、さらに他の人からの信用によって支えられていることがわかります。ですから、誰かが破たんすると、その人が信用を与えていた人も混乱に陥ることになりかねません。実際、今回の金融危機では、サブプライムローンの破たんをきっかけに、まるでドミノ倒しのように、志半ばで挫折するケースが世界中で次々に起こってしまったのです。

 

 

経済学のフロンティア

 

今日、経済学のフロンティアは、信用のメカニズムに真剣に向き合おうとしています。そのため、新しい方向へ、大胆な舵取りを決断しました。以前のように、信用の本質をごまかして、「カネ(貨幣)」のような普遍的な取引手段の説明だけに終始することをやめました。信用の個別性と相互依存に向き合うため、20年以上の歳月をかけて、情報の経済学やゲーム理論といった、信用のメカニズムを分析するための道具立てを準備しました。さらに、金銭的満足を最大化するといったステロタイプ化されたイメージだけで経済人をとらえることから、あっさり決別しました。公平性、互恵性、信認、規範、同調、フレームなどといった、今までの経済学には無縁の言葉が、経済人の選択の問題において生き生きと語られるようになったのです。

分析の仕方も多種多様になりました。被験者を集めて経済実験をしたり、大がかりな個票データを収集したり、急進的な研究者に至っては、経済人の脳活動のデータをも採取して、経済学という「選択の科学」に関連付けようとしています。

こうして、今日の経済学のフロンティアは、もはや「金融危機」を、字句のごとく特異とは見なくなりました。みなさんに金融危機という名の「特異」を説明するということは、すなわち、金融危機を特異と見ない経済学のフロンティアをみなさんに知っていただく、ということに他ならないのです。